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長崎小話

長崎県の日本一

鰤の水揚げは日本一。 トラフグの養殖量は日本一。 びわの算出額は日本一。


長崎という地名の由来

桜馬場1丁目付近から万才町まで長い岬があった。 この岬をナンガサキと呼んでおり、長崎という地名の起源になったともいわれる。


貿易

1570年の開港によってポルトガル貿易がはじまった。

1635年の長崎集中令によって中国貿易がはじまった。

1641年のオランダ商館の出島移転により、オランダ貿易がはじまった。

1859年の開国からは、イギリスロシア、各国との貿易もはじまった。

1550年、ポルトガル船が平戸に来航した。これを機に、平戸でのポルトガル貿易がはじまった。 同年、平戸に入ったフランシスコ=ザビエルはキリスト教の布教を行い、ひと月の間に1000人が信者になったという。 ところが1561年、ポルトガル人14人が殺される宮ノ前事件が起こり、ポルトガルは平戸から撤退した。

1562年、平戸にかわる貿易港として、大村領横瀬浦(現在の西海市)が開港された。 活況を呈し、教会も作られキリスト教も布教され、大名、大村純忠もこの地で洗礼を受けた。 しかし純忠殺害の反乱がおこり、横瀬浦は焼き打ちにあい、廃港となった。

1565年、福田にポルトガル船が来航し、貿易港として開港された。 がしかし外海にもろに面している等不都合が生じたため、島原半島南端の口之津(現在の口之津町)に移り開港された。


キリシタン

1580年、長崎は茂木とともにイエズス会の領地となる。 1584年には浦上も加わり、日本におけるキリスト教の中心地となった。 結果多数のキリシタンが移住してきて教会が立ち並び、その様はさながら小ローマといったところだったらしい。

1587年、鹿児島島津氏を攻略した豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、長崎、茂木、浦上をイエズス会から没収した。 長崎のキリシタンには巨額の罰金を命じた。

1596年、土佐湾に漂着したスペイン船、サン・フェリッペ号の膨大な積荷を奪うため、秀吉はバテレン追放令を再配布し、キリシタンの一斉逮捕を命じた。 これにより、京都大阪で6名の外国人宣教師と、20名の日本人信者が逮捕され、1597年、長崎西坂で処刑された。 これが26聖人殉教事件である。

秀吉の死後、キリスト教問題は徳川家康に引き継がれた。 1614年にキリシタン禁令がだされる。


出島

1636年、出島が築造された。 人工の島で、面積15000平方メートル、東西60メートル、北が175メートル、南が215メートルの扇形をしていた。 長崎の貿易商人25人の出資により作られた。

ポルトガル船の乗組員800人が収容されたが、1639年、幕府はポルトガルとの国交を断絶。 ポルトガル人を国外追放したため、出島は空き地となった。

1641年、幕府の命で平戸のオランダ商館(1609年オランダ商館が平戸に設置された)が出島に移転。 以降1859年の開国まで海外に開かれた唯一の窓として出島は重要な役割を果たした。 出島の経営は連合オランダ東インド会社が行った。

出島は1904年、埋め立てられて市街の一部となった。 こんにちではわずかに残る弧型を描いた石垣があるだけ。 石垣はいまもそのままの姿で埋まっていることだろう。


1670年代、長崎の人口は約6万人だったが、そのうち六分の一は唐人だった。 長崎に来航する唐船はどれも船神である媽祖(まそ)を祭っていた。 唐寺と呼ばれた興福寺、福済寺、崇福寺は媽祖を祭る堂宇として建立された。

17世紀後半、長崎に来航する唐船は増大し、海外に流出する金銀の量は莫大だった。 そこで幕府は年間の中国貿易の額を制限したが、その結果密貿易が横行してしまう。 そこで密貿易を取り締まるため、1689年に唐人屋敷が作られた。  9000坪ほどの敷地に2、3000人の中国人を収容できたという。 唐人屋敷は1870年の火災で大半が焼失した。

中国から伝わった文化は、今も長崎人の生活に溶け込んでいる。 ハタ揚げ、ペーロン、精霊流しは長崎を代表する風物詩となっている。 龍踊りや唐人船等くんちの奉納にも中国の影響がみられる。 卓袱料理や普茶料理、ちゃんぽん、皿うどん、桃饅頭等は長崎になくてはならない料理となっている。

1634年に架橋された眼鏡橋の石造アーチ橋の技術も中国伝来のものである。


外国人居留地

1823年、来日したドイツ人シーボルトは、医学教育のために鳴滝塾を開き、全国から集まった塾生に医学を教えていたが、1829年、シーボルトが国外追放になったため塾は閉鎖された。

1853年、ペリーが浦賀に、ロシア使節ブチャーチンが長崎に来航。 開国となった。 その後神奈川や兵庫と並んで開港場に指定された長崎では、大浦に外国人居留地が作られた。 1869年には11万坪の居留地が完成。

居留地は上中下の3等に分かれ、大浦地区や下り松等平地には、領事館や商社、ホテル、工場等が、東山手、南山手などの山手地区には教会や個人住宅が作られた。 開国後日本人も自由に出島に出入りできるようになった。

居留地に住むイギリス商人グラバーは、グラバー商会を営業した。 討幕運動に資金援助したといわれている。 グラバーと親交があったのが、坂本龍馬。

勝海舟の門人であった龍馬は、1866年長崎に亀山社中を結成。 1867年には海援隊を結成し、広く外国と貿易を行い、日本を物質的にも文化的にも豊かにするための活動を開始した。 が同年、京都で龍馬が暗殺されたため、構想は頓挫した。

1855年、オランダ海軍の技術を学ぶために海軍伝習所が作られた。 1855年に作られた小島養生所は、日本で最初の近代的な医学校と診療所を併設する施設で、これが発展したのが、現長崎大学医学部・附属病院である。

1861年に長崎製鉄所が作られた。9000坪の敷地に鍛冶場、工作場、熔鉄場など近代的な設備を備え、これが発展したのが三菱重工長崎造船所である。

外国人居留地では、外国人に限りキリスト教の信仰は公認されており、1863年に大浦天主堂が建設された。
1865年、浦上の人らがキリスト教の信仰を告白した。 それを機に、4つの秘密の教会が建てられ、宣教師が頻繁に訪れていたところ、一斉摘発され、68人のキリシタンが捕らえられた。 後の浦上四番くずれに発展する事になる。


風物詩

長崎では凧をハタと呼び、4~5月にかけてさかんに揚げられる。 ハタの特徴は上下左右に操縦しやすいよう作られており、その特性を利用したヨマ切り合戦がスリリング。

ペーロンは中国伝来で、入水自殺した詩人、屈原を弔うために始められた。 7月最終日曜日にペーロン選手権が開かれている。

長崎のお盆は江戸時代、7月13から15日だったが、現在は8月13日~15日の三日間となった。 初盆の家では13日から、そうでない家では14日から墓に灯明をともした。 お供えは精霊物といい、みやげとして精霊船に積む。 精霊流しは15日の夕方から行われる。

精霊船の大きさには規制がある。 船を流す際の道中では「ちゃんこん、どーいどい」と唱えるが、これは南無阿弥陀仏がなまったもの。 また、期間中に用いられる爆竹、矢火矢等花火に用いられる総額は、一億円を超える。

中国盆は旧暦7月26日~28日の三日間で、華僑の人々は普度(ポール)と呼ぶ。 

くんちは諏訪神社の秋の大祭で、1634年に始まった。 旧暦の9月9日、すなわち9日に行われたので「くんち」ととなった。 10月7日~9日の三日間行われる。

ランタンフェスティバルは、華僑の人々が中国の旧正月を祝う行事として行われたもの。 2月頃2週間にわたり行われる。


江戸の仇を長崎で討つ

「江戸の仇を長崎で討つ」とは、江戸で恨みを受けた武士が長崎で仇を討たれた、つまり意外な場所で昔のうらみを晴らすという意にとらえられるが、これは「江戸の仇を長崎が、討つ」というほうが正しい。

江戸の職人と大阪の職人が腕を競い、大阪が勝った。 そこで長崎の職人が飛び出して大阪の職人に勝ち、江戸の仇を討った、というのがそのおこり。


魚が旨い長崎

長崎県で獲れる魚種は日本一ばい。 魚の総漁獲量は日本二位。 真鯛、アジ、イサキ、ブリ、サバ、レンコダイの漁獲量は日本一。 トラフグの養殖生産数にクロマグロの養殖出荷数も日本一。 アマダイは日本二位。


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